目覚め


 地図で見ると、ヨルダン渓谷を流れる川は、ゴラン高原にあるシリアとイスラエルの兵力引き離しのための停戦ライン上にあたる場所から始まって、ガリリー湖の南4、5キロのところでガリリー湖から死海に向かって流れるヨルダン川に繋がっているが、長い年月をかけた水の流れによる侵食で出来た渓谷部は約30キロにも及ぶ。
 ゴラン高原をイスラエルが占領する以前は、このヨルダン渓谷を挟んで北のゴラン高原から湿地や湖の多く点在する西にかけてがシリア領であり、ヨルダン渓谷以南がヨルダン領というふうに分かれていたが、1967年の第3次中東戦争でイスラエルがゴラン高原を占領してからは、イスラエル、シリア、ヨルダンの3国がヨルダン渓谷を挟んで向かい合う格好になっている。
 翌週から隼介は、イツハクについてガリリー湖から見れば西に20キロばかり高原に上がった、そのヨルダン渓谷のすぐ側にある見るからに肥沃そうな麦用の農地に出かけたが、仕事はといえば殆んどが大きなトラクターを使った仕事ばかりで、それは隼介が手出しできるものではなく、隼介にできる仕事はといえばせいぜい畑に敷設してある給水用のスプリンクラーの簡単なチェックくらいのものだった。
 隼介は、どう考えても自分を必要とする仕事に思われなかったので、どうして自分が必要なのかイツハクに尋ねたが、その返事は、「今週は、ヨーゼフの方が機械の整備のために、キブツにある整備工場から出られなくなったために、彼の変わりに君に来てもらった」と言うものだった。
 しかし、実際はイツハクが一人が片道40分もかかる南のこの農場に車で通ったり、休み時間を一人で過ごすのがつまらないがために、結局はイツハクが自分の話し相手として隼介に声をかけたようなものだった。
 そんな有様だから、隼介は半日終わる頃には、この仕事にすっかり嫌気がさしてしまっていた。
 ヨルダン渓谷を眺めるといっても、特に変わったものがある訳でもなく、イツハクがトラクターに乗って畑を動き回っている間、隼介は、近くにある、以前はシリア人の農夫が住んでいたんだろうと思われる、廃屋を見に行ったりして、半日は何とか時間を潰せたが、どう考えても、イツハクに1週間も付き合って、この仕事をする気にはなれないと思った。

 イツハクは、昼に休憩小屋に帰って来ると、そうしてつまらなそうにしている隼介の態度を見て、「やはり日本人は勤勉なのかな?じっとしてるのが嫌いなようだね。俺だったら、こんなに自由な時間を沢山貰えたら、神に感謝するくらいなのに」と言って、皮肉っぽく隼介に言ったが、隼介は、「俺は決して勤勉な訳ではないよ。ただ、せっかく今日はここに来たのに、することがないじゃないか。俺は、自分が不必要な立場に甘えることが嫌なだけだ。日本には、『働かざる者、食うべからず』という言葉があってね、何もしないで物を貰うのも悪いだろう」と、うんざりした顔で突っぱねたものだから、さすがにイツハクも呆れた顔で隼介を見返した。
 それから二人は、キブツから持参した簡単な昼食を、黙って食べたが、他のボランティアの連中が、「イツハクは、凄い戦争を実際に生き抜いてきた男だから、きっと面白い話が聞けるよ」と、言っていたような話は、一言もイツハクの口からは出なかった。
 誰が考えても、自分が実際に人に向かって銃を向けて引き金を引く話や、人を殺した話など、したくないのは当然だろうから、そんなことはもうどうでもよかったが、この眼光の鋭い男ひとりを前にして、いったいどんな接し方をすればいいのか、実際隼介には、まったくわからなかった。
 それに、イスラエルの成人男性は、予備役が終わる50歳過ぎまで、全員が銃を所持していて、イツハクもM−16ライフル銃を持ち歩き、常に手元に置いているのだが、実弾の入った銃を持つ、訓練された人間のすぐ側にいたことのない隼介には、そのこともひとつのプレッシャーに感じられた。
 この男の機嫌を損なわせるのは、利口なことじゃないな― そう思った隼介は、もうこれ以上、イツハクとの距離を広げることはよくないと思った。だから、食事が終わって、持参したラジオに合わせて、イツハクが機嫌良さそうに口笛を吹き始めると、隼介も一緒になってリズムを取ったりしたし、イツハクがヘブライ語のラジオを聴いて教えてくれる、それほど面白くも無い英語のジョークも、隼介なりに一生懸命聞いてやって、話し相手になるように努めた。
 そして、昼食時間が終わりかける頃になって、イツハクは、暫く何かを考えていたが、カップのコーヒーをいっきに飲み干して立ち上がると、ドアのところまで行き、隼介に「ついて来い」と手招きをした。
 隼介は、いったいどこに連れていかれるのだろうと思ったが、じっとしてるよりもいいと思い、素直にイツハクに従った。

 「シュン。この渓谷の向こう側の国がどこの国か、あんたは知ってるよな」
 イツハクは、渓谷の一番底を流れる、小さな川が見下ろせる、切り立った斜面の近くまで来ると、目の前のヨルダンを見ながら、隼介にそう質問してきたので、隼介は、黙って頷いた。
 「すぐそこに、渓谷に繋がる一番大きな谷があるだろう。あの谷から右側がヨルダンだ」
 イツハクは、目の前のヨルダン側の渓谷の斜面を、えぐるようにして割り込んでいる、大きな谷を指差した。
 「じゃァ、あの谷から左側の国も知ってるよな?」
 「あァ、向こうはシリアだね」
 「ここからだったら、向こうのヨルダン側に人が立てば、手を振り合うことだって出来距離だ」
 確かに、渓谷を挟んだヨルダン側に人がいれば、肉眼で見えると隼介も思った。
 「お互いこんなに近いのに、俺は一生、向こうからこっちを見ることはないだろうな・・・。それに、間違っても、向こうの奴らと、手を振り合うこともないだろうな」
 イツハクは、腰を折って石を拾うと、渓谷の上を舞うワシに向かって投げつけたが、遥か手前で石は、渓谷の底に向かって落ちていった。
 「あいつらは自由に飛べていいよなァ。・・・こうしてここに突っ立て、長閑な光景だけ見てたら、何もかも、まったく違った世界の出来事に思えるてしまうよ」
 イツハクは、手に持った銃を肩に掛け直すと、地べたに腰を下ろし、暫くワシの方をじっと眺めていた。

 「だけど、もし俺があの鳥のようにして、この谷を越えれば、向こうから飛んでくるのは、間違いなく石じゃなくて、真っ赤に焼けた鉄の玉だな・・・。わかるかいシュン?・・・ここは、そんな国なんだぞ。・・・俺は、あんたら平和な国の人間が、どうしてわざわざこんなとこまで出向いて来るのか、よくわからん。」
 ヨーロッパを襲うかもしれないと予想される、この冬の大寒波が嫌で、バケーション気分で来た― なんてことを、この男には、絶対言えないと隼介は思った。
 「俺も、第4次中東戦争から生きて帰って、22歳の時に、初めてヨーロッパまで旅したことがある。・・・知ってるか?俺達は、海外に出ていても、常に大使館に連絡を取って、いつでも有事に備える義務があるんだ。適当に行き先を決めて、思い立った時だけ、家族に連絡を入れるだけなんて、気ままなことはできないんだ・・・。だから、そんな旅をしてたらね、どうしても、一緒にいる他の国の連中の気ままさが羨ましくなる・・・。それに、君らの自由と、俺の自由に、どうしてこんなに開きがあるのかって・・・。どうしても、つい思ってしまう。事実、俺は、あの時、あんたらが羨ましかったよ」
 「・・・・・・・・・・・」
 「だけど、その時になって、はっきりわかったこともある・・・。もし自分が、この現実に我慢できなくなって、この国から逃げ出したいと思っても、俺には、どこにも逃げ出せる場所なんてないし、逃げ出せるだけの条件も持ち合わせていないんだってわかった。どこの国も・・・、勿論アメリカだって、遊んで暮らせる位の金でも持っていかない限り、そう簡単には自分を受け入れてなんてくれない。・・・そう思うと、自分の居場所は、ここしかないんだってわかるんだ。・・・だから、俺は、自分の居場所を守るためにも、絶対に戦わなければならないんだ。何千年という歴史がどうこうでもないし、自分の意思に関係なく、複雑に絡まったアラブとの関係でもない。そんな理由なんて関係なく、ただ、自分や、自分の家族が生きていくためには、この国を守る意外ないんだ」
 隼介には、イツハクが自分を呼んで、何故そんな話をしたのか不思議だったが、少なくても、白人のイギリス人やアメリカ人のボランティア達に話すよりも、同じアジア人である隼介だからこそ、話せたことかもしれないと思った。それは、中東という場所柄、白人には弱みを見せたくないという、アジア人というよりも、むしろ西欧に近い国の人間の持つプライドであり、そして、西欧の社会からはかけ離れた、遠い国から来た人間への、安心感だろうと思った。



 次の日、俊介は、イツハクとは仕事に行かず、ヨーゼフがいる、機械の整備工場で働くことになった。
 前夜、ボランティアの仕事の割り振りを担当しているギラに、仕事を変えてくれるよう頼むと、「大体1週間は、同じ仕事を続けてもらわないと、人間のやりくりが難しくなるの」と、ギラは迷惑そうに言ったが、隼介が、あまりにも真剣に、その充てられた仕事の無意味さを説くものだから、さすがにギラも呆れた顔をして、暫く隼介の顔を笑って見ていたが、「わかったわ。ローテーションを組み直すために、もう1日だけは、ヨーゼフの仕事でも手伝っていて」と、整備工場で働けるようにしてくれたのだった。
 イツハクへの説明も、ギラが、隼介の話から何か感じ取ってくれたのか、「私から説明しておくから・・・」と、隼介が気まずい思いをすることがないように、気を使ってくれた。
 そんな訳で、翌朝、隼介が整備工場に顔を出すと、今度はヨーゼフが、驚いた顔をして隼介を見たが、隼介が前日の事を話すと、小太りで少しおっとりした感じのヨーゼフは、「せっかく楽な仕事に引っ張ってやったのになァ。それを、暇な仕事が嫌だという人間も珍しい」と言って、大笑いをして、「イツハクは、顔は怖いが、心配するほど悪い奴じゃない。俺からもイツハクには、うまく話しておくから、心配するな」と言ってくれたので、隼介は、少し気持が楽になったのだった。
 それから隼介は、ヨーゼフに、何の仕事をここですればいいのか尋ねたが、ちょうどその日は、オーチャード(りんご園)で使っている、トラクターも整備に入っていて、ポールとスティーブンが、オーチャードの責任者と一緒に来ていて、建物の外で、トラクターに付いた汚れを落とそうとしていたので、「どうせなら3人の方が楽しいだろうから」と、隼介もその仕事に加わるように、命じられたのだった。
 「シュン。ポールから聞いたけど、昨日は、イツハクと二人だけだったんだって?確かにあの男と二人だけで働くなんて、俺だってちょっと考えるよな。何か、噛みつかれそうな目をしてるもんな。ヨーゼフの方は、脂肪が服着て歩いてるような男で、人間も丸いから、こっちも突っ込み易くて、付きあい易いんだけどなァ・・・。だけど、仕事は暇だったんだろ。そうだなァ・・・。バッキンガム宮殿の衛兵と、オオカミみたいなもんか・・・。どっちも近づきがたいよなァ・・・」
 スティーブンは、隼介の不幸を、まるで楽しんでいるかのように、大げさに腕組みをして考え込んだ。

 「スティーブン。大きな黒い帽子被って、門の前で黙って立ってるだけで、高給貰ってる奴と一緒にするなよ。俺はただ単に、イツハクの話し相手として呼ばれたようなもんだ。それが杓に触っただけだよ。確かに俺も、戦争の経験談が聞けるなんて、不謹慎な期待を少しは持ってたかもしれないよ。だけど、イツハクの考え方も、問題だろう?」
 「シュン。もうそんなことは、もうどうでもいいさ。俺が君にけしかけたのも、悪かったと思う。だけど、シュン。、これで間違いなくひとつだけハッキリしたことがある。君は、本当に働くことが好きだって、俺達はよくわかったよ。・・・それでだ。残念ながら、俺とスティーブンは、まだそこまで人間が出来ていないようなんだ。だからお願いしていいかなァ?冬にこんな冷たい水を使う仕事、仕事好きのシュンにしかできっこないと思うんだ・・・」
 ポールはそこまで言うと、自分が持っているホースとブラシを、隼介の前まで持ってきて、うやうやしく差し出した。
 隼介は、困った顔をしてポールを見返したが、その内に不敵な笑みを浮かべると、ホースの先を黙って受け取り、何を思ったが、蛇口のところまで行き、コックを目いっぱい開いた。そして、自分が持っていたホースの先を二人に向けると、水を思いっきり二人に向けてかけ始めた。
 「やめろよ、シュン。ジョーク、ジョークだって・・・・」
 ポールとスティーブンが、水を浴びせられて、逃げ出そうとした、その時だった。
 『ドーン、ドーン』という、凄まじい音が響き渡るのと同時に、辺りの建物や窓ガラスが、その衝撃波で、一斉に小刻みに震えた。
 3人は、驚いて上空を見上げたが、二機のジェット戦闘機が、遥か上空を通過していて、それは、音速を超えた時の音だと、すぐにわかった。
 暫く3人は、ぽかんと口を開けたまま、その二機の戦闘機の行方を目で追った。
 音速を超えた後だったので、凄まじい速さで上空を通過する戦闘機は、すぐ北にあるヘルモン山の手前で北西に折れると、すぐに視界から消えていったが、僅か10秒足らずの出来事だった。

 「こんな朝早くから、どうしてあんなに騒音を撒き散らして飛ぶ必要があるんだァー?イスラエルの空軍は、少しは他人の迷惑も考えろってーの。・・・でもまてよ、それともパイロットの奴、遅刻しそうなもんで、朝の通勤に、わざわざ音速超えまでして飛ばしてるのかい?」
 スティーブンは、呆気に取られた顔をして、冗談混じりにそう言ったが、最近では、陸軍の巡回ヘリの姿はたまに見かけることがあっても、ジェット戦闘機が、それも音速を超えて、上空を北に飛ぶ姿は、これまで見たことがないと言った。
 「スティーブン。たぶんあれは、アメリカの戦闘機だろうな。だって、あの山の手前から右に入っていったら、シリア領だろ。イスラエルの戦闘機が、あんな領空侵犯するコースで飛んだら、シリアだって黙っていないよ。たぶんアメリカの戦闘機が、シリアのダマスカスにでも行ったんだと思うよ・・・」
 隼介よりも長く滞在している二人は、勝手な憶測を並べて、最近では珍しいという、戦闘機の飛行コースの話をしていたが、その内にポールが、「でも変だねェ・・・。こんなに国境近くまで来て、わざわざ音速を超える必要はないだろうに・・・?」と、首をかしげながら言った言葉が、まだ十分に周辺国との、国境線の位置関係が把握出来ていない隼介でも気になった。
 ところが、この二機の戦闘機の行動は、その日の夕方、隼介達が夕食前に見る、中東放送の英語のテレビニュースのトップで紹介されたのだった。
 それは、ダマスカスに向かうアメリカの戦闘機でもなければ、訓練中のイスラエル空軍機でもなかった。実は、サウス・レバノンの谷あいにある、パレスティナのテロリスト・キャンプをターゲットとした、イスラエル空軍機の空爆のための飛行だった。
 「あのイスラエル空軍の戦闘機は、ヘルモン山の手前で北西に折れてから、そのままヘルモン山を回り込む形で、テロリスト・キャンプを爆撃したようだな。確かに、わざとシリア領をかすめて迂回して飛べば、真っ直ぐイスラエルから北上してくるコースよりも、相手には気付かれ難いもんな。それに、シリア領をかすめて飛ぶために、たぶんあの時、わざわざこの上で加速したんだ・・・」
 スティーブンは、朝見た戦闘機の飛行が、実戦だったことを知り、驚きの声を上げたが、テレビに映し出される、あの戦闘機によってもたらされた、空爆後のキャンプの悲惨な状況には、大きく首を横に振って、顔をしかめたのだった。
 あの何分か後に、あの飛行機は、現実に多くの人を殺傷していたんだ― 隼介にとってイスラエルは、軽い気持で冬をやり過ごしに来た国にすぎなかったが、隼介の中には、そんな自分の安易な気持に対する自責の念が芽生えていた。そして、僅か数十キロ北で行われている、現実の戦争の影を肌身で感じたことで、これまでの人生で感じたことのない、恐怖心に似たものも感じ始めていた。



 その翌日から、隼介の気持の中には、はっきりと変化がみられるようになった。
 そしてそれは、現実への目覚めといえた。
 すでに10代から、落ち着いた雰囲気、確りした立ち振る舞いがみられる、どちらかというと可愛げがなくみえる若者達。
 決して浮かれて騒ぐようなこともせず、ひたすらバカ生真面目に暮らそうとするメンバー達。
 このキブツに来た当初は、そんなイスラエル人が煙たく感じられ、彼らとどう付き合っていくか真剣に考えるよりも、「自分はどうせ一時滞在者なのだから、あえて溝を埋める必要などないじゃないか。ここにいる間は、適当に付き合っていればいいや」と、安易に考えていた隼介だったが、自分が彼らと同じ、緊張した場所の真っ只中にいることを、身をもって実感したことで、彼らの生き様の真意を、やっとはっきり理解できた思いだった。
 イスラエルを敵視するアラブ諸国は、平静を装っているように見えるが、いつ何時攻撃をしかけてきてもおかしくないし、テロ攻撃は未だに続いていて、テロリストが国境を越えて侵入し、イスラエル兵に射殺されるというニュースは、後を絶たない。それに、兵役義務に就いている間は、常に死と背中合わせという危険にさらされる。そんな宿命を背負って、今の一瞬を精一杯生きようとしている人達を、自分のような平和ボケした人間が、狭い了見でみくびってきたことが、恥ずかしくてたまらなかった。
 翌日から、その週の残りの3日間を、隼介は、メイン・ビルの西側の少し離れた場所にある、養鶏場の手伝いに行くように指示されたが、その養鶏場まで歩くと、眼下にフーラ盆地を見渡すことができる。
 仮にもし、東からシリアが急襲してきたら、このまま真っ直ぐフーラ盆地に向かって、この斜面を下ればいいんだろうが、そこいらじゅう地雷だらけだろうな・・・。ここに逃げ道はないってことか― 隼介は、フーラ盆地まで直線距離にして10キロばかりの斜面を、恨めしそうに見て、大きな溜息をついた。
 あまりにも有名なゴラン高原という名前に引かれて、好奇心いっぱいでやって来た隼介のはずだったが、すでに気持の中から、浮かれた部分は消え去っていた。
 「シュン、どうしたんだ?遠くばかり眺めて、溜息ついてるじゃないか。何かまずい事でもあったのか?」
 隼介が振り向くと、いつ来たのかエティーがいて、心配そうに顔を覗き込んだ。
 「いや、何もないけどね。ただ、ここから真っ直ぐに、下のフーラ盆地まで歩いて下りられるかな?と考えていたんだよ」
 「ハハハ・・・、そりゃあ絶対無理だね。そこいらじゅう、シリア軍の置き土産がいっぱいだよ。その先から向こうには、生き物の姿が全く見えないだろう。そんな場所にだけは入るなよ。命がいくつあっても足りないよ」
 エティーは、そう言うと、隼介の肩をぽんと叩いて、「さァ、雛にエサをやろうか」と言って、先に建物の中に入っていった。
 隼介は、「あーァ、嫌になるな。空を飛べるわけじゃないし、移動するための足もない。えらいとこに来ちまったのかな・・・?」そう真顔で独り言のように呟くと、空を見上げながら大きく背伸びして、それから気持を切り替えるかのように、両手で頬を「パチン」と叩くと、エティーの後を追って建物の中に入っていった。

 この週、鶏舎を担当しているエティーという男は、隼介よりもふたつ若い26歳で、このキブツのメンバーとなってまだ日が浅いようなのだが、結婚していて、エリーという奥さんがいる。
 「僕と家内は、3年前に日本に行ったことがあるんだ。日本滞在は、半年だったけれど、東京で少し働いて、その後で、京都や大阪にも、半分仕事を兼ねて行ったよ。モダンで美れいな国で気に入ったけど、食べ物では苦労したね。サシミは、今思い出すだけでも気持が悪くなる。でも、シャブシャブだけは、もう一度食べたい」
 エティーの方から声をかけてきて、そう話してくれたのは、隼介がこのキブツに来た3日目の夕食の後だった。
 このキブツで唯一日本に行った経験があり、日本のことで話が通じるのと、エティーもエリーも、自分よりも若いのに、結婚しているせいか、凄く落ち着いていて、どちらかというと物静かなこの夫婦が、隼介はすぐに好きになった。
 タイや香港で、銀の指輪やネックレスなどの装飾品。あるいはポスターなどを安く仕入れ、それを東京に運んで、原宿や表参道、あるいは地方都市の、若者が多く集まる場所で売りさばくという仕事が、日本にいるイスラエル人の間にはあるらしく、エティーもエリーもその仕事をして、日本での生活費を稼いだと、二人は懐かしそうに話してくれたが、エティーが、「僕達は日本に行ったから、東京でその仕事をしたけど、トルコやギリシャなどで、同じように安い装飾品などを仕入れて、パリやロンドン、あるいはアメリカに行って売る連中もいるんだ。これはね、イスラエルの旅好きの連中が、海外で助け合うための方法でもあるんだ」と教えてくれた話には、イスラエル人独特の処世術を感じ、隼介は非常に興味を持ったのだった。
 ユダヤ人が世界中で財を成し、力を付けていった歴史的背景には、世界中に散らばるユダヤ人のネット・ワークを使った、トレード・ビジネスがあったと、隼介はどこかで聞いたことがあった。
 例えば、ドイツのような、優秀な製品を生む国で、ユダヤ人達は製品を買いつけ、それを自分達のネット・ワークを使って、よその国で売りさばくことで、ドイツ人が気づかないうちに、莫大な富を築いたそうだ。
 ユダヤ人は、その財力を生かして金融ビジネスで力を持ったり、秀でた知力を生かして様々な商法を生んだりしたが、それも相まって、「自分達をうまく利用した」という思いをドイツ人に与えてしまい、反感を生んでしまったようだが、現代のイスラエルの若い連中が、そうして外国に行ってやっていることは、このトレード・ビジネスそのもので、隼介は、やはりユダヤ人には、商人向きの血が流れていて、何十年、何百年経っても、ずっと受け継がれているんだとつくづく思ったのだった。



 広い鶏舎の中で放し飼いにされている、雛鳥の飼育の作業は、動物好きの隼介には合っていて、少し憂鬱な気分になっていた隼介の気持を和ますには、非常に好都合なものだった。
 午後3時過ぎまでエティーと二人で、雛鳥を追い掛け回して仕事を切り上げると、隼介は、「最後に見回りをして帰る」と言うエティーを残して、鶏舎を出た。
 部屋に帰っても、別段することもなく、夕食の時間まで寝る気にもならなかった隼介は、メイン・ビルのダイニングに行って、コーヒーでも飲んで時間を潰そうと思い、メイン・ビルの裏口に向かって歩き始めたが、ちょうど養鶏場とメイン・ビルの中間にある、乳幼児ばかりが集団で暮らす建物のところまで来た時、その建物の窓からダニエルが顔を出し、隼介を呼び止めた。
 「やァ、シュン。今帰りかい?」
 ダニエルは、いつものようにシャーイやモーシェがいないせいなのか、それとも自分がいるところが場違いなので照れているのか、恥ずかしそうに声をかけてきた。
 「やァ、ダニエル。今日は場違いなとこにいるじゃないか。それとも、今日から君も、ここの仲間にしてもらったのか?」
 ダニエルは、少しムッとした顔をしたが、「妹がいるんで、会いに来たんだ」そう言って、部屋の中にいる小さな女の子を指差した。
 隼介は、ダニエルのいる窓辺に近づくと、部屋の中を覗き込んだが、ダニエルの妹の手を取り、隼介に向かって手を振らせている女性を見て、驚いたように「あァッ」と声を上げた。
 その女性は、前の週のシャバットの夜、危うく隼介とぶつかりそうになって、隼介が「カーキ色の似合わない天使」と、思った人だった。
 隼介は、あの夜からずっと、彼女がどこで働いているのか気になってしかたがなかったが、名前も知らないし、メンバーやシャーイ達に尋ねるのも、何となく気が引けていた。
 「シュン。3時のお茶でも飲んで行きまちゅか?入っておいでよー」
 彼女は、女の子の手を使って、隼介を招きながら、女の子の口元でそう言った。
 「えッ、いいの?こんなに小さな子供ばかりの部屋に、俺みたいなのが入って大丈夫かな?」
 彼女は、「勿論、ウェルカムよ」そう言って、ドアを開けてくれた。

 隼介は、そこがあまりにも汚れの無い場所に思えて、恐る恐る部屋に入ったが、周りが子供と女性ばかりなので、暫くはバツの悪そうな顔をして立っていた。
 すると、「何をそんなとこで突っ立てるの。どこでもいいから、適当に座って」と言われて、やっと決心がついたように、部屋の隅に行って腰を下ろした。
 「あなただって、幼稚園くらい行ったんでしょ。何をそんなに照れてるの?私は、ファニーといいます。よろしくね」彼女は、呆れたような顔をして隼介を見ながら、そう言って握手を求めた。
 隼介は、養鶏場の仕事の後で手も汚れているし、匂いも気になって、一瞬躊躇したが、ズボンで手を何度も拭きなおして差し出すと、それには彼女の方が驚いて笑い出した。
 「あなたって、意外に面白いのね。でも、私の名前も可笑しいでしょう。ファニーなのよ・・・。ヘブライ語の意味は、勿論違うの。だから、笑っちゃだめ」
 彼女は、そう言って屈託なく笑ったが、初めて隼介と話をするのに、何の飾り気も見せない態度を見て、隼介はますます興味がわいた。。
 「俺は、シュン。シュンスケ・ヒラヤマっていうのがフルネームだけど、みんな日本人のフルネームは呼び難いから、シュンしか言わない」
 「シュンっていう名前は、もうここの皆が知ってるわ。日本人なんて珍しいもんね。私も日本人と話をするのは、これが初めてだけど、日本人と、それも英語で話しをするのって、少し不思議な気持・・・。でも、よろしくね、シュン。・・・あァ、いッけない。この子いつの間にか寝ちゃったみたい」
 ファニーは、抱いているダニエルの妹が、いつの間にか寝息をたてているのに気づくと、そのまま奥の部屋に連れていき、寝かしつけた。それから、手持ち無沙汰に隼介の側に黙って座っているダニエルに、「またおいで」と言って声をかけ、送り出してから、「あー、これで少し休める」と言って、隼介の前に来て座ったが、ジーンズとトレーナーという服装で、子供相手にてきぱきと動き回るファニーの姿に、隼介はずっと見とれていた。
 そして、彼女の顔立ちは、中近東諸国や純血のイスラエル人の美人に多い、目鼻立ちの整った黒髪の、ちょうどヨーロッパ系とアジア系の中間のような顔立ちなのだが、子供を寝かしつける時に彼女が見せた優しい横顔を、隼介は、本当に美れいだと思った。
 「君は、先週のシャバット・ディナーの夜、確か軍のカーキ色のジャケットを羽織っていたけど、もしかしてここのメンバーじゃないの?」
 「ええ、そうよ。私はまだ兵役中の身なの」
 彼女は、このキブツに兵役義務の一環として加わっている、立場はれっきとした兵士だった。女性兵士は、最初の基礎軍事訓練期間を終えると、様々な方面に配属されるらしく、このキブツには、同僚のグーリットと一緒に、半年前から派遣されて来て、働いているのだと言った。
 「後もう4ヶ月したら、私も退役なの。兵役が終わったら、暫くは好きなことが出来るから、そうしたら働いて、あなたと同じように旅に出たいなと思ってる。どこでもいいから、何もかも忘れてのんびりしたいのが本音・・・。でも、いいわね、シュンは。ずっとそうして、世界中を旅して歩いてるんでしょ。そういうことを実際にやってる人が、本当に羨ましい」

 「ねェ、聞いていいかい?もうすぐ退役ってことは、君はまだ20歳前なのか?俺には、凄く落ち着いて見えるから、そんな歳には感じないな」
 「あら、何て言えばいいのかな?それって良い意味なのかな?それとも、単に老けて見えるってことなの?」
 彼女は、隼介を睨み返したが、その目は笑っていた。
 「いや、俺は勿論良い意味で言ったんだよ。怒らないでほしいな。日本にいる、君と同じ年頃の女性と君を比べたら、雰囲気に大人と子供位の違いを感じるんだ。それにね、君達を見てると、厳しい現実と義務を確り見据えているだろ。そのプレッシャーに耐えて、毎日を無駄にすることなく、本当に大切に、真剣に生きようという姿勢がよくわかる。この国に来て、君達と暮らしてみて、その凄さがよくわかった。ところが残念だけど、今の日本の若者には、君達のような、生きてることそのものにプレッシャーがないんだ。平和や、自分の身の安全を脅かす危険を感じることは稀だし、適当にやてても、誰かが食わしてくれる。だから、一番の苦痛は、マンネリ化したつまらない毎日だ― なんて平気で言ってるんだ。君と同じ年頃になっても、社会のことは、何もかも他人任せで、勿論そのために自分でもがき苦しむことを嫌うから、ポリシーが表に出ない、自分に対する厳しさが表に出ない、まったく腑抜けな顔をしてる奴ばかりだよ。勿論僕も、根がしっかり生えていない、浮ついた連中の一人として育ってきたから、今は、自分を恥ずかしく思うことが沢山ある。僕の19、20歳の頃に比べたら 、君の方が数倍大人に見えるよ」
 「へェー、そうなんだ。日本人の女性には、まだ会ったことがないから、どんな風に見えるかわからないけれど、でも私は、もう20歳を過ぎてるの。家の事情で、少し入隊を遅らせてもらったの。本当は、さっさと入隊して、皆と一緒に義務を早く終わらせてから、働いて、旅に出て、それから帰って来て、大学に入って、好きなことをじっくり勉強するつもりだったけど、少し予定がずれちゃった」
 「へェー、そうなんだ。じゃァ、これから将来、現実にしていく夢が、君の前には、沢山あるんだ」
 彼女は、「勿論そうよ。未来は、今という時から、自分の手で切り開いていくもんでしょ」そう言って、自信たっぷりに頷いた。
 隼介は、その翌日も、そのまた翌日も、仕事の帰りに、この乳幼児の家に顔を出した。
 あまり毎日顔を出すと、周りのメンバーに嫌な顔をされるかと心配したが、それよりも先に、子供達の方が隼介に懐いてまとわりつくようになってしまったので、そこでで働く女性達も、隼介には好意的で、このキブツに来て、隼介は、初めて安らげる場所にいる思いだった。

−5−

もくじ HOME